オレも君も、本気だ
055:好きってどんなものなの、と問いかける君の声が耳に残って離れない
黄昏時を過ぎた庭は何物ともつかぬ暗渠が口を開ける。どうせ男一人で暮らすのだ、屋根があって炊事が出来れば構わぬと半ば投げやりに決めた割には、この家は水回りや造りや部屋数など上等の部類だ。小奇麗な葛の容貌を見込んだ業者がここぞとばかりに売り込んだ。結果として葛は庭付きの平屋に棲んでいる。棲んでいる、で正しいと茫洋と思う。葛は『住んで』いるより『棲んで』いた。葵が帰ってくるまでは。葵を見捨てるような形での別離はひどく葛を倦ませた。それでも葵が帰ってきてくれて、それですべてがよくなったかと言えばそうでもない。二人で経営していた写真館は畳んでしまったし、裏稼業の方も放逐されてしまった。二人を縛り上げていた組織の縄は消え去り、それでも葵は葛の傍へ寄り添うことを望んでくれた。
だが暮らしていくには先立つものが必要だ。葵も葛もそれぞれに得意分野で給金を稼いでくる。葛は手内職として賞状書きや手紙の代筆、正式書類の清書などを行う。毛筆も上手い葛は改まった場に提出する書類の代筆をよく頼まれた。対して葵は活動的な性質そのままに港湾部へ出向いては人足の真似ごとで日銭を稼ぐ。もともと組織に所属していた頃、人足として身分を偽り紛れ込んだこともあるから経験やコツは知っている。船荷の積み下ろしは案外力がいるし腰も痛めるから、コツを心得ている葵は重宝されているようでなかなか引っ張りだこの様だ。葵自身から次はこっち頼むなんて声がかかるんだぜ、と自慢げに言われたことがある。
その葵はまだ帰宅していない。食卓は整っているが飯茶碗と椀は伏せたままで盛っていない。すぐに帰ってくるだろうと踏んで待つつもりだった。相手の帰宅時間を気にするなど組織に属していた頃から見れば考えられない変化だ。それぞれに仕事を持つ身であったから食事は一人で摂ったし一人で作っていた。それでもやはり、美味いと言って食べてくれる人がいれば気分は華やいだ。ひた、と葛の裸足の足裏に濡れ縁の板が吸いつく。ごそりと取り出したのは一丁の拳銃だ。組織の解体は内から綻びていくものであったから備品などは配給されたままだ。葛はこの拳銃を捨てられずにいる。実弾はもちろんこめてある。そこにも暗渠は口を開けている。小さな口だ。ここから発射された実弾の威力はよく知っている。頭蓋骨さえ貫通させる。
この家の位置も悪い。隣近所が遠く、まるで隠者の隠遁生活を送るような位置にあるのだ。要するに多少のことでは人は集まらない。葛はそっと銃口を左脚へ向けた。大腿部へひたりと据える。何処になんの血管が走っているか神経が通っているかは戦闘をこなしてきたものとして知っている。引き金を引いた。
ぱん
同時に凍るような痛みが走り弾は葛の左大腿部を貫通した。凍りついたように冷たかった傷口はすぐに燃えるように熱くなる。ジワリジワリと出血が沁みて、濡れ縁の板が紅い体液を吸って湿った。
「く、ぁ」
立っていられない。がくり、とくずおれる葛はそれでも笑んでいた。この痛みは俺が生きていると教えてくれる。葛は葛が嫌いだ。昔からそうだ。特殊能力ゆえに厳しくしつけられた。武士の家の子であることを忘れてはなりません。心血注いだ軍属の予備学校では大刀を賜るほどの成績を残した。だがこの特殊能力ゆえに、組織の一員として組み入れられてここまで来た。それでも。何をしても。幼いころ友達と呼べる今は亡き人と戯れていた時でさえ、軍属学校で首席を取った時でさえ、組織で任務を完遂させた時でさえ。
葛は自分を感じたことなどなかった。
これが好きということなのかなと思った。葵は葛と閨をともにする前から口にする。好きだよ葛ちゃん。愛してるよ葛ちゃん。葛にとっては意味不明な言葉の羅列だ。閨で葵に抱かれた。閨で葵を抱いた。体は働きかけに応える。性犯罪が起きる一因はこれだなと葛は思ったものだ。男性体は働きかけ一つで暴走して止まらなくなる。自制が必要なのだ。それが出来ぬ馬鹿が犯罪を起こす。
座り込んだ左側にはすっかり紅い水たまりができていた。丸く開いた傷口からこぽこぽと面白いように血があふれていく。ズボンも暗黒色に染まっている。ぷんと鉄錆の匂いがする。葛は浮かされたように握りしめていた拳銃を己のこめかみに当てた。目を閉じる。それだけで視界が闇に染まる。脚を撃った傷がずきずきと脈打つように痛んだ。
「ばーん…」
情けない効果音を立てて葛がどさ、と濡れ縁に寝そべった。よく磨かれて黒光りしている板張りへ伏せる。それでも葛はこの拳銃を投げ出せない。
「何してるんだよこの馬鹿野郎ッ!!」
庭を突っ切って駆けてくると同時に怒声が響いた。葛が目を開ける。葵だ。明朗闊達な性質そのままに変わりやすい葵の表情は今や、憤怒に燃えていた。葛の手から拳銃をもぎ取ろうとする。葛は初めてそれに抵抗した。葵の手が伸びて乱暴に調えられた葛の濡れ羽色の髪を掴んだ。思い切り引っ張られて走る痛みに意識が逸れた刹那に奪われる。上げていた前髪がはらはら落ちて陶器のように白い葛の額を隠す。
「葵、返せ!」
肉桂色の髪を不揃いに遊ばせている葵は拳銃を葛に帰すそぶりもない。髪と同じ肉桂色の双眸は明確に怒りで燃えていた。燐光を放つようにはじける。
「もう使わないっていうなら返す。…脚も撃ってるな」
葵はトンと一歩後ずさる。沓脱ぎを挟んでしまった距離だ。脚を撃って動けない葛の手が届かない位置だ。
「あおい!」
「赦せるもんか、いいかオレは絶対に許さないからな! お前がお前を傷つけるなんて、絶対に絶対に赦さない!」
どさ、と葛は濡れ縁に伏せた。冷たい板張りが傷で火照りを帯び始めている体には心地よかった。
「…判らない」
葵は葛の言葉を待つ姿勢だ。拳銃を叩きつけなかったのは暴発の恐れを配慮してのことだろう。その憤り示すように握りしめる皮膚がぎちちと鳴っている。
「葵、俺は、好きというものが判らない。こんなもの要らない。こんな体要らない。幼いころ俺は通過点であると言われた。武士の家を後世に伝えるための部品であると言われた。軍属の学校に行っていた時も、兵士は使い捨てであると言われた。すぐさま捨てられるようなものにしか、俺はなれなかった。だがそれでよいのだと思っていた。使い捨てになんの価値がある。自分を好きになれと、言われたことがある。幼馴染に。でも俺はその意味さえも判らなかったんだ――」
ずるり、と動かない脚を引きずる。神経はびりびりと痙攣したように痛み、筋肉の断裂や皮膚の破裂を痛みとして訴え始めていた。葛が脚を引きずるたびに新たな血が溢れた。こぷこぷと噴水のように溢れて血だまりを広げていく。
葛は葵の方を見てきょとんとする。葵は衝撃にかたまっていた。好きが判らない? だったら今までのオレの睦言は葛に届いていなかったのか。葛からの言葉は嘘だったのか? 力の抜けた手から拳銃がとさりと落ちた。葛がそれを拾おうと手を伸ばす。その胸倉を掴みあげた。
「馬鹿にするなぁァぁあッ!!!」
激情がほとばしるままに葵の平手打ちが葛の白い頬に炸裂した。拳ではなく平手にしたのは葛の脆さを咄嗟に葵が想いだしたからだ。どさりと沈む葛を見下ろして、葵ははぁはぁと荒い呼気に肩を上下させた。葛の紅い唇は濡れ光る。それがニィと笑んだ。葛の手には拳銃があった。引き金の後ろへ葵が指を滑り込ませるのと葛がこめかみに銃口をあてがったのが同時だった。葵の指が邪魔をして引き金は引けない。葵は指が千切れてもそこから指をどかすつもりはなかった。
「葵、俺はこんな奴なんだ。だからもう、俺のことなんか忘れろ。この家はお前に遺してゆくから。だからお願いだ――」
ぎぢり、と指が引き金に挟まれて激痛を訴えてくる。葵はそれを何でもない顔をして堪えた。
「やだよ。オレは葛ちゃんが好きなんだよ。好きな人が死のうとしているの止めない奴なんかいない。なによりもオレは葛ちゃんとずっとずっと一緒にいたいんだよ、だから」
お願いだから、死なないで。
「『好き』が判らないならオレが教えてあげるから。誰も教えてくれなかったこと、オレが教えてあげるよ。だからさ、だからお願いだから、そんなことしないで。そんなことされたらオレだって後を追うよ」
葛の内部が鈴と鳴った。教えてあげる。そんなことを言ったやつは誰もいなかった。葛が自分で学びとるしか機会はなく、それにことごとく失敗し、また環境も劣悪であった。そんな出来損ないで、好きであるということさえ判らない葛に、葵は好きだということを教えてやるという。
「葵…指を、退けろ」
「いやだね」
ぶづ、と皮膚が裂けてぽたりぽたりと葵の手の平から手頸へと紅い筋が伝い流れた。
「あおい!」
「だったら葛ちゃんもこめかみから銃を外してほしいな。葛の力が弛む。その隙をついて拳銃を奪った葵はそのまま奥の間へと畳の上を滑らせた。拳銃は最奥に位置する仏間まで滑って止まった。
葛は茫洋と葵の指先を眺めている。自分なんかのために傷を負うことを厭わない人がいるなんて思いもしなかった。永く続いた武士の家。とにかく不祥事は起こせなかった。軍属学校では首席であることを求められ応えてきた。葛を決定づけてきたもの、それは好悪ではなく可不可だった。
「葵、俺は、俺の価値は」
「葛ちゃんがどんなやつかなんて決まらないよ。葛ちゃんが嫌いな奴は悪い評価しかしないし、葛ちゃんが好きなやつはいい評価をする。だからね、オレは葛ちゃんが好きだよ。だからオレは葛が自分を傷つけるなんて赦せないんだよ」
それはオレが葛を好きってことなんだよ
「あおい」
葛の眦からスゥッと透明な雫が滑った。仄白い頬は葵に打たれた所為で紅く腫れて熱を帯び始めていた。
「俺はその『好き』が判らない。お前との食事は愉しい。お前と暮らすことも閨でさえも。それでも俺は何が『好き』なのか判らない」
葵はその時の葛を忘れられないと思った。化粧したようにくっきりとした黛と黒くて長く密な睫毛。通った鼻梁に賢しらな白い額は陶器のようだが今は葵が乱した所為で前髪が下りている。潤んだ黒曜石の双眸は純真無垢でそれゆえに血まみれの道さえ暗示した。葵と葛が任された仕事は綺麗なものばかりではない。人死にも経験している。そういった汚濁全て含めて潤みきった黒曜石は蠱惑的に瞬き、唇は紅く熟れて葵を誘った。
葵はむしゃぶりつくように葛に抱きついた。それしか判らなかった。口でいくら言っても判らなければ体温を感じれば判る。葛の体は細くて冷たくて熱かった。
「葛。オレはお前の全部を判ってやるなんてバカみたいなことは言えない。オレには判らない部分だって当然あるだろうしそれが悪いとも思わない。人間関係なんてそんなもんだろ? でもな、オレは好きな人間が好きが判らないなんて理由で自傷するのは赦せないんだよ。だからさ、葛ちゃん、時間を頂戴。オレがお前に好きってどういうことか教えてあげる。お前の満足がいかなければ捨ててくれていいよ。だからね、もうこんなこと、しないで」
葵の手が撃ち抜かれた葛の左脚を撫でた。丸く刳れた傷口。ぷんと火薬の匂いがした。葛は黙って聞いていた。
「お前が教えて、くれるのか」
「もちろん」
葵と葛は血まみれの手のまま互いの頬を抑えて唇を交わした。
好きを知らない?
だから生きてる価値がないなんて誰が言ったの?
教えてあげるよ
だから、生きてよ
《了》